子どもを眠らせない母親

ちいさいひとにも出てくる親と子供のちいさなくい違いから少しずつずれてゆき、ある程度の年月がたった時には大きな隔たりが出来ている事もしばしばあります。

この内容は、児童虐待を描いたちいさいひとでも読む事が出来ますので、一度読んでみるもの良いかもしれません。親子の関係改善を少しでも前進させる事が出来るでしょう。

別の女子高校一年生の次の相談は、二学期の期末試験を間近にひかえた頃であった。

娘がしょぼんと母親に連れられてきた。
「頭がぼんやりする、というんです。朝の一時間目から、教科書を開けてもぼんやりして頭に入ってこない、力のないアクビが出て、全然意欲がわかない、私もうだめになった、と言うんですが、でも、宿題は多いし、予習復習をしないと、どんどん分らなくなってしまうし。それで夜遅くまで起きてやってるんですけど、もう宵の口から眠い、眠いというんです。嗜眠性脳炎というような病気にかかっているのではないかと思いましてね、神経料に連れていったのですけど、病気ではないといって、なにか精神安定剤でしょうか、お薬をいただきましたわ。それを飲むと、ますますぼーっとして眠くなって、頭がぼんやりすると言いますの。どうしたらいいか分らなくて、こちらにお伺いしたのですけど」
というような話であった。

「それはつまりあのぉ」と、私はあまり何気なく言うのは気がひける思いだったが、「お嬢さんは要するに、眠いんでしょう」と言った。

「そうです。眠いのです。眠いので、困っているのではありまぜんか」と、母親は反射的に言い返してきて、私とぱちんと、目が衝突した。

「眠いのだから、眠ればいいのですよ」と、私の語気が少し荒くたった。

「眠ってばかりいたら、この子はダメになってしまうじゃありませんか」と母親も感情がたかぶった。

「眠ってばかりって、そんなに眠ってばかり人間がおれるものですか。眠りたいだけ眠ったら、それ以上眠ろうたって眠れないですよ」

「だって、この子は、朝から晩までいつも、眠い眠いって言ってるんですのよ。眠らせたらいつでも眠ってしまいます」

「ばかな。眠りたいのに眠らないから、いつもいつも眠りたいのですよ」

「そうおっしやいますけど、夜でも、眠いからすこし眠ってから、なんて言いますので、すこし眠らせて、それから勉強だんです。でも、ちっともはっきりしない顔なんですよ。この子は眠ってもよいと言われたら、いまなら、ずっとずっと眠っているでしょう。病気なんですわ」

娘のすすりあげる気配で、母親がしやべるのをやめ、私毛、気がついて娘の方を見つめた。感情を全く示さないでうっむいていたのが、いま涙と一緒に生きた感情を示していた。私は娘に、さりげなくしっかりたずねた。

「どれくらい以前から、眠くてぼんやりするようになったの?」

娘は、はっきりと次のように答えた。

子どもの言うままになる視野の狭さ

「中学校の三年生からです。担任の先生に、個人面談で、いま希望している高校に入ろうと思うなら、5時間以上寝てるようでは駄目だと言われたんです。必死で5時間以上寝ないように努めたんです。もうこれ以上は駄目だと思って、やっと合格したときは、ほっとしました。ところが合格した日に、高校の校長先生が、さあ君達、これからの勉強が厳しいのだ、落後しないように頑張るのだ、と言われて、入学式までにする問題集をもらって、家に帰ったら、もう茫然として、力がぬけて、その頃から、何を見てもぼんやりして。高一になったら、朝の一時間目から教科書を開いても、心がちっとも集中していないのです。私はもう続かない、と思って、ぼやーんとしているばかりなんです」

母親がかたからから口を添える。
「この子が、五時間以上寝てたらだめなのよ、と必死に叫ぶように言うでしよ。だから、なんとかして、思うだけのことはさせてやらなきゃと、こちらも必死ですわ。2時から7時まで寝ることに、この子決めていましたのね。だから、2時までは、まだよまだよって私横に坐っていて揺り起こしたり、そりやあもう大変、こちらだって、もうどうかなってしまいそう。でも自分からそうやって頑張ってる娘を見てるとこちらも必死ですね。まだよまだよって揺り起こして、英語といえば、本をさっと出してやる、単語は私かひいてやる、ノートの線はひいてやる。眠くて、もうろうとして、ワーツといった感じで、もう勉強もなにもないって感じで、そのまま、机の前にうつぶせて眠ってしまいます。毛布をかけてやるんです。親も子も着がえたりしないで、ごろ寝ですものねえ。その努力のかい、かあって、いまの高校に入ったんですよ」

親がここまで見境いもなしに、子どもの狭い視野の中へ共におち込んでヒステリー状況にのめり込むのは、なぜなのだろうか。子どもの意志を尊重してやる、子どもの意志をゆがめてはならない、というのが、どうやら、そこまでゆがんだ母親達の大義名分のようである。

母親自身の意志ぱ、それではどうなっているのだろうか。こういう母親の中に、むかしの戦争時代の全体主義国家における美徳でめった「滅私奉公」の匂いがする。

もともと、母親自身が、成長発達のどの時期においても、「私」を大事にすること、自己主体を尊ぶことを大事と感じたことがないのではないか。だのに、子どもの主体性を伸ばそうという戦後の教条主義をうのみにして、子どもの言いなりになってきているわけで、自尊心をもたない母親の悲喜劇といえるようなのだ。

私は母親の話を聞いていて、パンと卓をたたき、

「だめだ!とにかく、まず眠らなきゃあ。眠りたいだけ眠るのですよ!」

と、大声で言うと、娘は顔をあげて一瞬私を見つめ、すぐうなだれてか細い声で、

「眠りたいだけ眠るなんて。そんなことをしたら、私もうほんとうにだめになってしまいます」

と言った。

この母子を、ゆとりある心理状態にまで導くのに、その後の何回もの面接が必要ごった。

教育の過熱にあおられて

知的教育ママのおとし穴

こんな相談があった。高一の娘、か、せっかく中学時代に頑張って、学区内でトップの高校に合格したのに、一学期のなかばから、なんとも嫌な顔つきをして帰ってくるようになり、心配でたまらない、というのである。朝もなかなか起きてこない。意欲が全くなくなっている。どうしたらいいのか。親としてなにをしてやるべきか。母親ぱせわしなく私に質問を重ねてくるのだった。

聞けば、入学後第一回目の実カテストでは350人中20番で、本人も喜んでいたが、中間考査で、英語75点、数学73点。クラスの中に、90点以上が何人かいるのに、こんなに悪いなんて、と言って、大変なショックを受けていたそうである。

「そのときに、お母さんはどう言ってあげたのですか」と、私はたずねてみた。すると、その母親は、「まあ、こんな悪い点は、あなたの実力じゃないわ。あなたは中学ではトップだったんだから、高校でも、あなたの実力を出しきれば、あなたの思いどおり、絶対、トップがとれるわよ。ね、気を落とさないで。頑張りなさいよって、私、あの子の力を認めてやったのですけど」というのだった。それで発憤するのかと思うと、そうではなくて、「だめだわ、私・・・」と娘は憂うつな顔をますます暗くさせ、「私、やっぱりA高に入るべきではなかったわ・・・」と、つぶやいたというのである。

「あの子がかわいそうでかわいそうで」と、私の前でも、母親はそう言うとき、涙ぐんでくる様子で、目のやり場もない。

つくづく娘がかわいそうだな、と私も思った。もっとも私かかわいそうだと思うのは、母親がこんな風だとかわいそうだな、という思いである。私自身にもあまり自慢にはならない記憶がある。中学校では自分はできると思っていたのに、高校で、まるでこちらが相手にもなにもならないというほどの難なくできる同級生のいることを発見したときのうろたえと面目なさ。広い世界へ出ていったら、こんなショックは何度も何度も味わう機会があるのだ。並のできでも、少人数の中ではトップになることもそりゃああります、井の中の蛙大海を知らず、母親が一緒におろおろすることはないと思うのに。

「やるだけやるのよ。それでだめなら、だめな順位があなたの実力じやないの、というくらいに、さらりと言いさってあげたらいいんですよ」と私か言うと、この母親は言った。
「そんな厳しいことを言ったら、あの子、幻滅して、ご飯も食べないで部屋にこもったりするようなことになりますわ。他人事だから気楽にそうおっしやるけれど、わたし、これまでにどれだけあの子のことで気をつかってきたか。その努力が台なしになってしまうじやありませんか」

そういう気のつかい方が、とんでもない子どもの脆さをつくってきたのに。

すさまじい家の荒廃

世問的にととのった外観でも、一歩中に人牡ば、すさまじい家の荒廃に、ぞっとする、という形の現代的ゆがみの代表、か、例の家庭内暴力というものである。

一見品行方正の育ちのよいおとなしそうな少年が、家では親兄弟に対してすさまじいばかりの暴力をふるう。親は抑えるすべなく顔色なし。どうしたらよいかという相談がいくつもあるが、最近の家庭内暴力の代表的事件といえば、東京で起きた開成高校生を父親が殺した事件であろう。その翌年になって母親が自殺した。

新聞や週刊誌などで経過をたどって見る限り、私か実際に接する家庭内暴力の状況と、まさに同じである。だから、この事件の全体を見ると、問題の本質が端的にあらわれていると、私には思えた。

まず、ひとりっ子の息子は生まれてこの方、祖父母、父母に溺愛され続げ、おそらく世間的な苦労を越えてきた親達自身とは全くへだたった性質や性格のもち主になっている。つまり、感受性が鋭くて見えっぱりで、他人との関係はいつも緊張しすぎて深まらない。他人との人間関係の挫折がこわくて、いわば対人関係恐怖症におちいり、家にばかりこもって、勉強は点数がよい。
東大進学も夢ではないと評されて、親はそこに願いを託したというが、思春期の対人恐怖は、そのまま内向することを放置するのがいかに危険かを、親達は全く気づいていない。

高校に入ってからのより激しい受験競争の中では、成績順位が落ちる。成績だけがよりどころの生活であったから、極端な自信喪失。

こういうケースでは例外なく同しだが、子どもがうろたえると、そのうろたえを見て、見ておれない、かわいそうだ、どうかしてやりたい、と、親がうろたえる。

このケースでは一家がうろたえの極致にあったときに、祖父が死ぬ。本人が唯一頼りにしていた心情理解者を失って、子どもは家で八つ当りをはじめる。

「あなたは東大へもいける力があるそうよ。だからしっかり勉強してね」と励ます形で子どもを支えてきた親の狭い価値観への見事な反動が、実は子どもの心に蓄積されている。
(ボクは選ばれた能力をもつ。しかし、親は学校も出ていないし、教養もない。なぜそんな程度の低い親が、自分の親なのだ。こんな親では、自分に救いがない。成績が落ちたのも、知的レベルの低いわが家の環境のせいなんだ)。

わが子への不用意な過剰期待が、ある日から突如逆に、子から親へ向けられるとき、親は、とまどい絶句して平伏し、子に詫びを乞う。この情ない親との自己同一性を直感するとき、子はさらに狂暴な破壊衝動へとかられる。

家中のものを手当り次第にこわし、庭に布団や着物や家具を放りだして火をつける。この抑制のない破壊衝動につき動かされている子どもにとって必要なのは、おろおろして子どものすそを引き、批難や詫びや愚痴をあびせかけて行為をとめようと試み、結局は子どもの迫力に押しきられてしまう親ではない。

衝動的行為を真っ向から見すえて、したいだけのことをさせたあと、共に心の沈黙に耐えてやる、おたおたしない幅の広い容認の態度が、子の心を解放に導くのだろうが、当の親達は度を失って、ますますうろうろするばかりだったようである。

特に閉鎖家族の中では、子どもにとって親は、見事に自分の姿の投影的存在である。

親の同様が見ていてたまらないのは、自分の心の動揺のより増幅した姿を、そこに見るからである。このケースでは、母親への虐待がひどくなった時点で、父親は「近所の手前もある。いっそ親子三人で河原へいって、あたりはばかることなく気のすむまで親をなぐってくれ」と子に懇願し、実際に河原で思いっきり子どもに暴れ狂わせている。両親はいっさい抵抗せず気のすむまでなぐらせたという。

一審担当の弁護士は、「私にも真の原因は分らない。先天的に暴力的になる因子があったのでは・・・」と首をかしげたとあるが、ここまでの状況を追跡した結果、先天的うんぬんの弁が出るとは。子どもの、いまおかれている状況についての心情理解が、いかに、大人にとって苦手なことなのかが、この弁護士の言葉に象徴的に示されている。

大人世代と子ども世代の見事な断絶。この実態をそれぞれの家庭の親達が確認しないままでいるならば、あちこちの家庭の見事な荒廃は、ここ当分いよいよ度を増していくだろうと思う。

少女の死が象徴するもの

「大人は分ってくれないのだ。どうして分ってくれないのか、という叫びが心の中にあったのでしょうか」というインタビュアーの問いに対して、ある少女は、表情もさりげなく、「大人が分ってくれないとか分ってくれるとか、言っていないと思う。大人に分ってほしいとも思わないですよ」と、自殺した友達の気持を推測しての発言か、それとも自分自身の思いかが判然としないような実感的な言葉を出していた。虚無、倦怠、虚妄、厭世といった言葉に通ずる気分が、子ども達の表現にはにじんでいるように見えた。

このテレビのドキュメントを見ながら、世の大人達の鈍感な神経が、子ども達をここまで追いやっているのに、まだ大人達自身がその悲劇の深刻さに気づいていない、それほど大人達の神経は子どものそれにくらべて鈍磨なのだということを確認した思いだった。

この二人の少女のうちの一人は、死ぬかなり以前の日記に、「人に嫌われるのも、嫌うのももういや。早く行きたい、早く行きたい」と書いているという。

そしておどろくべきことに、あらゆる日記や手紙など書き残したものに、両親に関する記述が全くないという。子が親を心理的に見限っていたのだ。

死ぬと決めた当日になって、少女達二人は互いに「B子、あなたはところで、どうして私といっしょに死ぬの? 理由は聞かしてもらっていなかったわね」「A子、私だって聞かしてもらってないわ。あなたから先に言って」と書き合っており、いわゆる大人達のいう死に追いやられた直接の動機原因が、まことに曖昧稀薄、つまり、そんなものはあってもなくても死ぬのだ、ということを示している。

そして、二人は、近隣でひときわそびえる高いマンションの屋上から、真向いに自らの家と学校の見える側へ、あっけなく飛び降り、そして昇天したのである。

まさに俗を超え、彼岸に至ろうという意志、いやそれはむしろ、生理や情緒の全体の指向するところ、といってもいいような傾斜角度で死に傾いたのである。

ありふれた中どころの家庭での、ありふれた家庭の中で起こった、それは、家族の人間関係の不毛の象徴と言えるのではないか。

物質的に生活ぱととのい、親達は悪夢のような窮乏の時代を、思い出すまいとして幾年月。ととのった環境の中で、幸せなはずの子どもの心は荒廃をきわめていたのである。

子どもの自殺にみる親子のへだたり

子どもが自殺するなどというのは、戦前戦中および戦後すぐの頃には、誰も考えつきさえしなかったことである。

「理由なき反抗」という題の、非行を扱ったジェームスーディーンの映画が昭和30年に封切られたが、豊かで平和で、特に問題があるようには思えない家庭で育った子どもが、理由なしに暴走する、親達のうろたえを描いたものだった。中流家庭に問題少年が多いのはなぜなのかということが、その頃から問われたした。非行というよりももっと問題の深刻な、子どもの自殺が、表向きなんの問題もなさそうな普通の家庭で発生するようにたった。

「理由なき自殺」というべきだろうか。大人達はよってたかってなぜ死んだのか、その理由を考えてみるげれども分らない。

実は、そうした子どもは小さいときから、生理や情緒そのものを、いわば自殺に傾かざるを得ない色あいに染められて大きくなってきたのであって、大人達がさがしまわるような直接的な動機や原因に追い立てられての自殺なのではない。意識下の心の深層、つまり、心全体の傾向を規制する生理や情緒の形成過程からすでに問題なのであって、大人が事件か起こってからうろたえるというそのこと自体が、とりもなおさず、大人と子どもの間にいかに限りのないへだたりがあったか、ということを示しているようなものだ。

以前に兵庫県川西市で、13歳の少女二人が、マンションから飛び降り自殺をした

大阪で発行されている「少年補導」に、少女達の自殺直前の交換日記が公表され、七月にはNHKテレビで、小説家の畑山博氏がリポーターになってドキュメントが放送されもした。それらにょって、自殺する子どもの状況が、かなりくわしく明らかにされたよう
であった。

とりわけ、死ぬ前夜、家庭の居問で、「娘はこの椅子に坐ってテレビを見、私は隣のこの椅子に崖って新聞を沈み、娘はいつもと違った様子はなかったんです」というような意味の説明をしている父親のとまどいは、子と心のへだたった現代の親達のとまどいを代表しているように聞こえる。その部屋の前面に大きく開かれた窓の真正面に、家並みの向う、空を区切る地平の突出部として、少女二人の飛び降りたマンションがそびえている。少女は、家の居間にいてはるかを望みながら、あそこから飛び降りて死のうと決めたのである、何日も前に。

親も教師も、すべての大人追加、なぜ子どもが死んだのか分らないと絶句するのにくらべて、子どもの同級生や、以前親交のあった友達は、ごく自然に「こんなことになるだろうと思っていました」「あの子らは、死ぬのだろうと思っていました」「二人は別々に死のうと決意していたと思います」「誰もとめられなかったと思います」「いつも死にたいと言っていたから」などの発言をするのである、わけ知りの納得顔で。

自我がつくられない子ども達

性ノイローゼの中学生

中学生くらいになれば、男児は精通がはじまる。普通、悪ガキ連中はこの時期、自分達の心身における性的発達について露骨に関心を示し合い、誰に教えられるでもなく、いつの間にやら性の常識を一応わきまえるものである。

ところが、最近の子どもの中には、孤立して机に向かい勉強して成績をあげさえすれば親も満足して、子どもの日常的な要求はかなえてやる、といったことで、家と学校と塾をきめられた時間に往復するだけで、友達とか仲間のつながりをもつ時間さえないものが、珍しくなくなっている。

中学二年の子どもが、母親が部屋に入るのをいやがるので、親はよけいに心配になり、こっそり入ってみると、押入れに大人のエロ雑誌を積んでかくしてあった。それをおどろいた母親が丹念に開いて読んでみると、異常性愛や猟奇的事件ばかり、目をそむけたい写真や記事ばかり。
「うちの子は性的異常者になってしまったのでしょうか」とあわてて相談にきた母親がいたが、なんのことはない、勉強はできるが友達とのざっくばらんなつき合いの習慣のない子どもが、自分の性的関心や欲求を満たす方法がなくて、ひとりで夜、街の販売機の週刊誌をこっそり買ってきていたのである。そういう形でしか性への関心を満たせないのは不幸なことだと、私はその母親に説明したが、その母親は、「中学生の性への関心は、スポーツや音楽観賞やお勉強に昇華したらいいのでしょう」と、まことに賢い意見をお出しになる。

「昇華というのはまことにきれいだけれども、実際上、女の月々の生理が避けられないのと同じく、男の生理として欲望が起こり射精するということも避けられないのですよ」と言うと、母親は眉をひそめて、たえられない嫌悪感を示すだけであった。

「いやーですね。そんな子どものときからですか。そんなことはなしですましたらいいじゃありませんか」と、男の生理機能とその発達についての理解が企くないことを示す。

「あんな雑誌を見て興奮してよろこぶなんて、私、こわいですわ。母親として自信ぱらりません、もう。イヤです」などと、性を無視することでしか婦人としての上品さが保てないとでもいった風情なので、私か、「もっと健康でもっとあけっぴろげの性についての話と、きれいな裸の本があれば、子どもは販売機のエロ雑誌なんか買ってきませんよねえ。いままでの大人向けは、特に日本では、抑圧されたゆがんだ形の性をしかとり扱わないようですからか。そんなものしかないのが不宰ですよ」と言うと、その母親は、目を見開いて、あっけにとられていた。

この開聞いた話によると、ある中学生が自殺した。原因が例によって全く分らない。ところが、子どもの部屋の押入や戸棚から、子どもの汚れたパンツ、か、なんと50枚も出てきたというのである。

「ぼくはもう抜け出られなくなってしまいました。お母さん、先にいってしまうことをお許しください」というような遺書めいた走り書もあったということである。

いまわしいような妄想をめぐらしながら自慰することがやめられなくなり、それが自分ひとりの異常事だとひそかに気に病み、不用意にパンツを汚してしまう現実を、母親にさとられまいと極度に気をつかっていた。誰にでも起こりうることだとは、友人仲間でもいて話し合う中でなら、必ず明らかにされたはずのことなのに。

避げられない生理現象、むしろ健全な生理を、狂的逸脱事と思いつめて、それから抜けられない自分に絶望して首をくくったのである。

悲しい無知のまま、事なかれ主義の上品な環境の中で、人間的に鍛えられ発散されることかく自滅の結果を招いたわげである。かかしなら考えられないことだ。

もちろん、そのことだけが、この少年の自殺の原因だ、とは言えないだろう。なににしても、自殺という形の子どもの夭折ほど痛ましいものはない。